どれほどのときをこうやって過ごしていただろうか。
鼻をやわらかくすぐる甘い匂いにこころと体はすっかり安らいでしまって、腕のなかで閉じ込められそうな痩身を手放すのが、ひどく難しくなっている。
(まだ、こうしていたい……)
こころのどこかで、ずっと会いたいと思っていた。けれどそれは胸を焦がすような狂おしい渇望ではなく、会えればいいなとただぼんやりと願う程度の思いでしかなかったのに……
佐助を見た瞬間に駆け抜けたものは、今この生で政宗と対峙した衝動と衝撃とは比べ物にならぬほどの熱。
竹刀を構え、倒すべき敵と政宗と相対した瞬間に、内側から迫りあがる炎のように熱い歓喜とは全く違う。
貪欲に佐助を求める強烈な飢えや渇きに似た焦燥。
おぼろげに記憶していた懐かしさが吹き飛ぶほどに、この出会いによって鮮やかに胸に刻まれた荒々しい想い。
幸村は自覚ないままに、昔のようにただ穏やかなときを過ごすのではなく、もっと強い繋がりを欲していた。
それだけでは何も満たされないものを、抱え込んでしまったのだ。
まどろみの中にいるかのような一瞬の白昼夢。
浮かび上がるかつての幻に、心がなんら動かされず足りない、と幸村は呟いた。
そう、言ってしまう感情の正体を知らぬまま、幸村は佐助をかき抱く。
離れることを拒むように。
まるで、佐助は自分のものだと示すように……
こうやって抱きしめていても、まだ足りない、満たされないと心の奥が疼き騒ぎ立てる。
満たしたい狂おしく激しい衝動に駆られるが、それを癒す方法を知らない。満たせないものを少しでも埋めるために幸村は佐助を抱きしめる。
もどかしさに歯噛みする。
一体なにが足りないというのか。
「旦那……ちょっと、苦しい」
幸村の腕の中で、佐助はもぞもぞと身じろぎした。ぎゅうぎゅうと力いっぱい抱きしめられ、骨が軋んだ音をたてそうだ。
締め付けられる安らぎは既に通り越して、痛みに顔が歪む。
「あ、すまない」
幸村はあわてて佐助を開放した。その直後から、佐助の暖かさと感触が残る腕は、あって当たり前のものをなくした虚しさにひどくざわついている。
再び佐助を抱きしめたいと体が疼くが、唐突に抱きしめる理由も見つからなくて、幸村は堪えた。
「ねえ……幸村。そのひとって誰?」
織音は眉をひそめ、じっと佐助を見つめていた。
そこに嫌悪や不快感が含まれている気がした。しかし、織音が出会ったばかりの相手にそんな感情を持つ理由が分からず、気のせいだろうと思った。
「佐助だ……ええと……」
なんと説明したらいいのかわからず、幸村は言葉につまる。
「猿飛……佐助です。旦那とは昔からの友人なんだ」
佐助は微苦笑した。眉を下げ、こまったような笑みに、幸村は首を傾げる。
佐助がなぜそんな顔をするのかが分からない。
「佐助……?貴方が?」
疑わしそうな声。しかしすぐに織音はいつもの笑みを浮かべた。
「そうなんだ。貴方が佐助さんなのね」
さっき、貴方の話を聞いていて、会いたいと思っていたの。
織音はまだ食べかけの弁当を指し一緒に食べようと誘う。佐助は織音とは対照的に、困ったような笑みを浮かべたままだった。
渡された箸を受け取り佐助は座った。
そのすぐ隣に幸村が、ふたりに向かいあうように織音がすわった。
幸村はほぼ一方的に佐助に話しかけた。織音が視界の片隅にも入っていない様子で、きらきらと輝いた目で佐助を一心に見つめる。
自分と出会うまではどんなふうに過ごしていたのか。
かすがとは知り合いなのか。
概要をなぞるようなものから、細部まで聞かれる。
佐助はなるべく自分の性別がばれないように細心の注意を払い幸村の問いに答えていた。
幸村と一緒に居たい、それが当たり前だと胸に刻み込まれるように思っても、自分の性別を告げるのは別問題。
女だと知られたくないと、怯えるように叫ぶ自分がいる。
正体がばれるではないかという冷や冷やする緊張を抜きにすれば、共にいれなかったときを埋めるような幸村との会話は心躍る。愉しくて胸が弾む。が、気になるのは織音の存在。
佐助はちらちらと彼女に視線をやる。
織音は泰然と自分のもってきたものを食べていた。さきほど佐助に見せた嫌悪はすっかり姿を潜めている。
変容ぶりに気のせいだと思いたかったが、佐助の勘は告げていた。あれは気のせいなんかじゃない。あの子は旦那のことを……
ふたりに全く興味ないとでも言っているような態度が逆に恐ろしい。
彼女のなかで、いったいどんな感情が渦巻き廻っているのだろうか……
「なあ、佐助はかすがと同じ学年なんだろう?」
「え、あ、うん」
佐助は慌てて幸村に視線を戻し頷いた。一心に見つめてくる幸村の瞳がくすぐったい。異性に見つめられる恥ずかしさや喜びとは皆無であることに、佐助は気付いていない。
そもそも、幸村のことを“異性”とは認識していないのかもしれない。
佐助が気にしているのは、自分が“女”として生まれてしまったこと。
幸村が“男”であることに、今はまだ深くは考えていないのだ。
「なら、高校受験を控えているんだろ?」
期待の眼差しに、佐助は幸村が何を言いたいのかすぐに気付いた。
「うん……」
その話題を避けて通りたくて、佐助は離しを摩り替えようと今まで幸村の質問に答えるためだけに開いていた口を、積極に使う。
「そういえば、かすがは旦那とおんなじ学校に通うみたいだね」
「ああ、そうだ。なあ、佐助……」
「謙信公がそこにいるのを教えてくれたのは旦那だって、感謝してたよ」
「うむ。それは何度も言われた」
「はは、昔のあれを旦那は毎日見せつけられることになるのかな?それともちょっとは落ち着いたから、昔みたいにはならないのかな。バックに花が見えてさ、大変だったよ」
「佐助」
佐助が語ることを幸村は聞き流す。
自分の言う言葉こそが重要なのだと、傲岸に物語る強気の態度。
愚直なほど真摯に見つめてくる目に、佐助は唇を閉じた。
「一緒の高校に行かないか?」
言われてしまった……
胸を埋めるのはそんな言葉。
鉛のように重い何かが、全身に広がっていく。
佐助は幸村の誘いにすぐに返答することが出来なかった。
ごくんと、喉を動かす。
幸村をごまかす言葉を捜し、ぐるぐると頭を回転させる。
同じ学校に通うことになれば、すぐに自分の性別がばれる。
どれだけ隠しとおしたいと思っても、学校が同じになったら騙しとおすことなんて出来ない。
学校で男のふりをしたとしても、生徒手帳には名前が書かれるし、他のものは佐助を女性として認識する。幸村を欺ける時間もたかが知れている。
佐助が自分の言葉を拒むはずがないという尊大さ。
佐助が自分の誘いを拒むかもしれないという、僅かに滲む恐怖。
佐助が自分の望み通りにうなずいてくれないかという希望。
不安と自信と期待と。
矛盾した感情を織り混ぜた表情に、佐助はため息をついた。
進路先なんてそんなに簡単に決められないよ。
ほら、先生や親だってよく言ってるでしょ。
友達が行くからその学校に行くと決めるのはやめておけって。
それに俺、もう行きたい高校がきまってる。
なんていう言葉が、見事に頭のなかで空回りして、喉の奥で消えていく。
ああ、俺はほんとうに愚か者だ。
自分の欲求や抱える不安や矜持なんて関係なしに、俺はこのひとに逆らえない。
このひとに望まれたら、なんだって叶えてやりたいと思ってしまうんだ。
「仕方ないなあ」
零れ落ちた言葉に呆れる。一番仕方ないのは他ならぬ自分だ。
「旦那を放っておいたら何をするかわからないし、一緒の学校に、いってあげるよ」
そういうと酷くうれしそうに幸村が笑った。歓喜でふたたび佐助を抱きしめる。
そんな幸村の笑顔が何よりも好きだと思う限り、自分は幸村の頼みごとをずっと拒めないな、と幸村に甘すぎる自分を佐助は笑った。
……ずっと一緒にいたい。
佐助と離れたくない。
それは『昔』がそうだったから?
ともにいるのが当たり前だったから?
佐助が傍らにいないと落ち着かないから?
欲求が生まれる理由が分からないから、違うと頭の片隅で思いつつもそう考えることで納得する。
なあ。ずっと一緒にいてくれ。
おれは佐助と離れたくない。
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再会編終了