「あ……誰だろう」
織音は箸を止めた。
玄関に立っている人影に気付く。
見たことのないひとだ。
幸村の待ちひとの春日ではない。春日は金色の髪の一見少女と見紛う少年だった。
女の織音が歯噛みしたくなるような美しい少年は、一度見たら忘れることができない。
そこに立つのは、橙色の目立つ色をした髪の……少女、だろうか。性別が一見判断つかないのは、春日と似ている。
胸はないが男性にはない体の線のやわらかさに、織音は少女と気付くことができた。
幸村は織音の視線につられ、背にしていた玄関に目をやった。その直後箸を落とす。
冷たい床が乾いた音を立てる。
「幸村?」
問いかけには答えず、幸村はじっとガラス戸の向こう側に立つ人を見つめていた。
驚愕に見開かれた目。
唇が戦慄き、震えながら、名前をつむぐ。
「佐助……」
万感がこもるそれに、織音は体内を焼く凶悪の憎しみが一瞬で燃え上がったのを感じた。
言葉にできない感動や衝撃……そして愛しさを、そこに立つ人物に幸村が抱いていることに、織音は気付いてしまった。
透明なガラス戸の向こうに居る人物は、同じように立ち尽していた。
小さく体を震わせて大きな目をさらに丸くして、視線を反らせずに幸村をじっと見つめていた。
幸村は立ちあがる。
大きな音をたててガラス戸を開ける。そこに立つひとを、強く抱きしめた。
強く、かき抱かれた。背中にまわった腕に引き寄せられ、呼吸が苦しくなるほど幸村の逞しい体躯に包まれる。
(……あ)
つん、と目の奥が熱くなり、全身が脈動する。
駆け抜ける衝動は、言葉にならぬ喜び。胸をうめつくすのは、泣きたくなるような懐かしさだった。
(旦那だ……)
伝わる鼓動が。
自分を抱き締める腕が。
熱さが。
抱擁の安らぎが。
記憶のなかに言葉でしか存在しない"大切な主"のもどかしさなんて一瞬で消えた。
主の暖かさを思い出したんじゃない。
佐助を襲ったのは、一度忘れたものを思い出したという衝撃なんかじゃ、ない。
与えられたのだ。
今、猿飛佐夜という少女に初めて与えられて刻みこまれた。
衝撃を。
鮮烈な、真田幸村という少年の存在を。
手放すことのできぬ、穏やかさと暖かさを。安らぎと狂おしくなるような愛しさとともに。
全身から伝わる彼という存在に、佐助は思考が吹き飛んだ。
(俺は"昔"、このひとを知っていた)
(けれど俺は"今"のこのひとを知らなかった)
(でも、俺は知ってしまった)
過去の中にある"彼"の記憶が薄れてしまうくらいの、今、自分を抱き締めてくる真田幸村という存在を!
思いしらされた。
(俺はどれだけたとうと……)
(姿形が変わろうと……)
(このひとに囚われてしまうんだ)
焦がれて、欲している。
今まで言葉の羅列でしかなかったものが、リアルな感情として佐助のなかで膨れあがり、不安や恐怖を抱いてしまうほどの渇望とともに、佐助の中で熱く鼓動を奏でる。
佐助は幸村の背に己の腕を絡めた。
強く、その愛しい存在と離れることができぬように……
言葉なんて出なかった。
今、胸のなかで渦まくものを言葉にできるなんて思えなかった。
肌が触れ合うだけで想いが伝わるなんて、信じていない。
けれど。
抱き締めあうことでしか、現せない想いがあるんだ。
「……さすけ」
ひと文字ひと文字。
愛しさを刻むように緩やかに舌にのせる。
佐助の胸は高く鳴った。
かすがにその名で呼ばれるときはなんら感じなかったのに、幸村に呼ばれると特別な宝もののように感じた。
「旦那……っ」
こうやって貴方を呼ぶことで、嵐が訪れたような、胸をかきむしりたくなるような激しい感情が生まれるなんて知りもしなかった。
それだけで……
自分の居場所はここなのだと。
胸に染みる安らぎが訴えてくる。
「ただいま」
告げる言葉をたくさん考えていた。
でも、そんなものは無意味になる。
いま相応しい言葉はただ、これだけ。
ここが俺の帰る場所。
「おかえり。佐助」
泣きたくなるような安堵の抱擁を受けながら告げられた言葉に、佐助は静かに涙を流した。
会いたくないなんて思っていた自分が、酷く莫迦莫迦しい。
俺の居場所は、ここにしかないのに。
ここいらでendマークとしておきます
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