自覚した瞬間に佐助は吐き気がした。
腹腔奥深くから沸きあがってくるのは、自分への嫌悪だ。
口元を押さえそうになって、はっとして自分の行動を制止した。幸村がいるのだ。いらない心配をかけたくない。

刹那のような時であった。瞬きするほどの短さで佐助の内側を黒く染め上げたものは今や嘘のように消え去っている。しかし、突風のように駆け抜けた幸村への嫉妬は白昼夢に見た幻ではなく、佐助が確かに生んだ醜い産物なのだ。

目をそらしたくてもそらすことのできない、純粋に慕ってくれる幸村を裏切る感情。
一瞬でもそんなものを抱いてしまった自分自身が許せない。

「佐助」

自分を案じて見つめてくる瞳に、罪悪感でじくじくと染みるように胸が痛んだ。
動揺でゆれているうちにカバンはいつの間にか幸村がもっている。
それすらも気にならない。

「旦那……」

幸村を見つめる瞳は物憂げに沈み、涙さえ浮かべていた。

どくんと強く胸の奥が鳴る。苦しいくらいにその瞬間そこが締め付けられて、言葉にできない痛みを生んだ。

涙を止めてやりたい。
苦しげな顔をさせたくない。

ただがむしゃらに抱きしめたくなる。
そうしなければ生まれた痛みを消せない。そんな脅迫観念に包まれる。

頼りげない細い体は、この腕の中でどれほど暖かくこの胸を満たしただろう。
再会したときに抱きしめた安楽の記憶が蘇り、それを再び手にいれたくなる。

手放したくないずっと閉じ込めていたい存在が目の前にある。それを捕まえもせずに野放しにしておくことが愚かに思えて、捕えてしまえと自分のなかにあるなにかが凶暴にざわめくのだ。

初めての感覚に幸村自信が驚愕し戸惑った。

佐助が泣いて苦しんでいるのに、何故こんなにも自分は身勝手に欲求を抱き、軽視できない黒い感情を体内の奥深くに飼っているのだろう。
幸村は己への嫌悪を飲み込んだ。

必死に欲求を押さえ込み、佐助の目尻を濡らすものを指の腹で拭った。

「平気だと言ったが転んだ怪我は泣くほど痛かったのか?」

無理矢理からかうように笑って、佐助の片頬を包む。
笑みには翳りが映りこんでいるが、佐助はそれに気付けるほど冷静ではなかった。
もし、罪悪感に精神が揺らいでなければ、少年の性欲に濡れた瞳を決してみのがさなかったはずだ。

むらむらとわきあがる不純な感情。その正体がわからない幸村はただ押し殺し、じっと佐助を見つめる。
しかし幸村の努力むなしくどれだけ封じこもうとしても、隠し切れない欲求が瞳に浮かびあがり、自覚なく雄の獣の目で佐助を見つめてしまう。

「ん……うん。ほんとはけっこう痛かったんだ。情けないよね。転んだだけで泣いちゃううなんて」

佐助は幸村のことばに頷いた。
幸村に嫉妬した自分がいやになって泣いたなんて、口が裂けてもいえない。
この年で転んだだけで泣いたなんて思われたら、多少どころかかなり格好悪い。(子供じゃあないんだから)それに、幸村には男と思われているのだから、二重の格好悪さだ。幸村の目には大層菜情けないやつに映っただろう。
そう見えるのがいやだからといって、真実を話せるわけないのだから、誤解させておいたほうがいいだろう。

幸村は佐助に背を見せてしゃがんだ。

「泣くほど痛いんだから、歩くのだって辛いだろう?ほら、おぶるのから乗れ」

佐助を背負い家まで連れていくというのだ。

「へ、そこまでしなくてもいいよ。俺様もう大丈夫! 平気だからっ!」

もちろん佐助はすぐに遠慮する。

「つべこべ言わず乗れ」

低い声は主従時代を思いださせる。
強く命令されると逆らえないのは、魂に刻まれた忍の性分なのなのだろうか?
逆らう意思を根底からうばう強制力が幸村の声にあった。

躊躇いがちに佐助は幸村の肩に手をかけた。
恐る恐るといった態で佐助は幸村の背に乗った。

膝裏に幸村の腕がすべりこみ、佐助の体を支えた。軽々と立ち上がり、少しだけ振り向いて「思っていたよりも軽い」と言って笑う。

幸村にしがみつくように佐助は腕を首に回す。
自分のものよりもずっと細いそれに、すぐ壊れてしまいそうな華奢な印象を抱いた。

背負った佐助の体は柔らかくて、軽かった。
とても同じ年の少年のものとは思えない細い体。

自分とはまったく違う、逞しさとはほど遠い大事にしなければすぐに壊れそうな華奢な肢体。

まるで、女みたいだ……

そう思った瞬間、幸村のなかでまた新たに熱が生まれた。



幸村の家で過ごす時間はあっという間に過ぎていった。
お互い抱える目を背けたい感情は、会話の愉しさに意識の外に追いやられていた。
帰る時間になると、幸村は目に見えて不機嫌になる。一度などは時計を少し遅らせようかなどと嘘とも思えぬことを言っていたので、佐助はちらちらと自分の携帯電話を確認する癖をつけた。
電車に乗り遅れたらたまらない。
幸村にはまだいえないが一応年頃の少女なので門限があるのだ。
(かすがと付き合っていると両親がしっかりと思いこんで文句を言わないあたり)寛容で佐助の行動にいちいち口出ししてこない両親だが、夜遅くまで家に帰ってこないことにいい顔をしない。


帰るときも幸村は佐助を背負おうとしたが、丁重に断った。
ひとに見られたら恥ずかしいし、さっきと違ってそこまでしてもらう理由はない。
毎回帰り道はしんみりとした会話になる。
またすぐに会う約束をしているのに寂しがるなんて馬鹿げているけれど、ふたりにとっては少しの別れでも寂しさを感じるには十分だった。
見送る幸村に佐助は手を振って、電車に乗る。
空いている車両の席に座って、自分のなかで馴染んでしまった田舎の景色を眺めた。
硝子窓にうっすらと写る自分の姿は、幸村とのしばしの別れにさびしさを浮かべていた。
ほら、離れた瞬間にまた会いたくなってる。
あのひとの隣が俺の場所。
痛いくらいにそれを自覚しているのに、俺が旦那を嫌いになれるわけがない。
羨むとか妬むとか、そんな薄暗いものを抱くわけなんてないんだ……
一緒にいるのがあたりまえのように染み付いてて、世話を焼くのが当たり前になって、あの人には逆らえないくらい甘い。
我が侭を言ってくるあのひとがとても愛しくて、とても大事にしたいと思えるんだ。

あれはきっと思い違いなのだ。

佐助は目を背けるように何度も言い聞かせた。



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09.30 四既