「嫌だな」
佐助は自分の掌をじっと見つめ忌々しげにつぶやいた。
「頼りない。細い。白い。こんなの俺の手じゃない」
不平を漏らし、直視に耐えないのか手を握りしめ、乱暴にジーパンのポケットに突っ込んだ。
そのはずみで飾りの鎖が擦れて、キィの高い不快な音が耳をかすめる。
佐助は舌を打った。一見、苛立った粗暴な表情が悲しげに沈む。
「こんな姿で、旦那に会いたくないなあ」
暗く落ち込んだ瞳に、濡れたものが浮かびあがる。
下睫を濡らし、重力に従い頬を伝い落ちていった。
佐助はベットにゆっくりと倒れこんだ。
こんなに弱い自分は嫌いだ。
自分の部屋にいると、誰にも見られていないというだけで、泣きそうになる。
弱さを認めるようで、本心では泣きたくないと思っているのに、少しでも辛い思いをすると、泣いてしまう。
泣きたくないのに。
昔は、前は、こんなに弱くなかったのに……
目を閉じると、四百年前のあの時代、あの場所のことがまざまざと蘇る。
魂が記憶したもの。
血や、腐っていく肉の臭い。
咳き込むように濃厚な濃密な人の死の香。
生きるものの命を奪う感触。
肉を切り、骨を断つ掌に残る痺れ。
忘れることのできない、忍としての宿命。現世では確実に罪であり犯罪。前世では己を苦しめる咎。
逃れざる宿命に歯をくいしばり、現実から目を反らし、赤く濡れた大地をひたすらに駆けていたあの時。
自分という闇を唯一照らし、導いてくれた光。
ただ、そのひとのために生きた。
罪を背負うことも、咎を恐れることも、傷付くことも、悲しむことも。
その人のためなら耐えられた。
その人のために強くなる。
自分という人間の弱さを殺し、涙を飲んだ。
決して自分の弱さを外に出さないように。
涙を流さないように。
強い自分であるように。
……それが、今の俺は出来ない。
佐助は握った手をポケットからゆっくりと出し、恐れるように震える手で、己の胸に手をやった。
ふわり、と。
かつての自分にはなかった感触が手に伝わる。
やわらかな、肉の感触。
ふわふわとした、心もとない、脂肪の塊。
年の割には小さいそれは、小ぶりであったけれど、それは乳房だった。
「こんなのいらない……」
戦慄く唇を噛んだ。
それだけで泣きそうになる。
自分の体が女であると自覚する。
たった、それだけのことで。
静寂に満たされた部屋に、軽快な音楽が流れる。
今の佐助の感情とは全く反対の、明るい曲。
机に置いた携帯電話が、メールがきたことを告げる着信メロディだ。
佐助はそれに背を向けた。
気がむいたら後で見よう。
メールはそういうところが便利だ。
電話と違って、すぐに出る必要がない。
しばらくすると、また部屋に着メロが響いた。
暗く澱んだ空気を吹き飛ばすそれに、余計なお世話だと無意味に悪態をつく。
自分で設定した音楽に、酷く苛立つ。
音楽が途切れた数分後、また携帯電話が曲を奏でる。
「うるさい」
毛布をたぐりよせ、頭から被る。
それでも耳に届く音楽。
佐助は奥歯を軋ませた。
「うるさい!」
ようやくぴたりと止まった音楽。
なんだよ。何回もメールしやがって。
誰だかは知らないけれど、後で文句言ってやる。
ぶつぶつと独り言をして、猫のように体を丸める。
そうやって暖かい毛布にくるまっているうちに、眠気が襲ってきた。
抗いがたいそのおだやかさに、苛立ちや不安を全て真っ暗な穴の中に飲み込まれていくような気がした。
体を委ね、沈んでいく意識を感じながら、眠りに落ちていこうとしていたその時。
「佐夜、春日くんが来てるわよ」
ノックもなく部屋に入ってきた母親の声に夢と現実の狭間にあった意識が、急に現実に引き戻される。
佐助は舌打ちしたいのを堪えて、今だ眠そうな目を擦りながら半身をおきあげる。
佐夜とは今世の名だ。生まれてから十五年間も呼ばれていると、さすがにその名のほうが馴染んだ。
佐助、と以前の名で呼ぶのは今のところたったひとりしかいない。
「ノックしてっていつも言ってるでしょ」
何度言っても聞いてくれない母親に、言うのも飽きてしまった台詞を口にした。
相変わらず母は佐助の言うことを聞いている様子ではない。
「あら、眠ってたの、珍しい」
眠ることは珍しくない。
昼寝は疲れたら頻繁にしているし、夜だってしっかり睡眠時間をとっている。
単に、佐助の寝ている姿を母が見ないだけだ。
それを説明するのが面倒で、億劫そうに頭を掻いた。
「かすがが来てるの?」
母のいう春日君は、佐助にとってはかすがであった。佐助と呼ぶ、たったひとりの“昔”の知り合い。
「ええ、そうよ。玄関で待ってるわ。早く行ってあげなさい」
さっきのメールの犯人はかすがだろうか。
佐助はベットから下り、机に置いた携帯電話のメールを確認する。
やはりかすがだった。
仕方ないな。
あいつがわざわざ来るくらいなら、なにかあるのだろう。佐助は母の脇を通り、階下に向かう。
「ちょっと待ちなさい」
階段の手摺に手をかけたとき、いきなり母親に呼び止められた。
「佐夜、貴方女の子なら身だしなみにもっと気をつかいなさい」
呆れた目で母親に見つめられる。佐助は不快そうに眉根を寄せた。
「早く行けって言ったのはそっちじゃん」
「寝癖くらい直しなさい。それにキャミソールで行くのはどうなの?みっともないわよ」
佐助の格好は、無地のキャミソールと鎖の飾りの付いたジーパン。着まわししているジーパンはともかく、飾り気もなく肌を平気で露出させているそれは、明らかに部屋着である。
露出した日焼けしていない肌は白いが、不健康という印象はない。血色がよく、張りがある。佐助の暗い表情さえなければ、溌剌として見える。
その姿を年頃の娘がいくら昔から親しいとは言え、男の子に見せるのは抵抗があるようだ。
「かすがだから、いいんだよ」
今更あいつに取りつくろう必要なんてない。
佐助は母親の言葉を無視して、玄関で待つかすがに会いに行った。
金色の煌く髪が見えた。
さらさらと流れる金糸に覆われている卵型の輪郭。
大きな瞳。
意思の強そうな眉。
整った鼻梁。
小奇麗に掃除された玄関に立っていたのは、細身の美少年だ。
母親は付き合いが長いかすがと、どうやら付き合っていると勘違いをしているようだが、自分たちの関係はそういうものではない。
佐助と同じ前世の記憶を持ち、忍であり、そして前世とは違う性別で生まれた、仲間だ。
平たく言えば、友人だ。
今風の若者らしくカットした髪が、振り向きざまにはらりと揺れる。
佐助と違って外用に装った姿が、自然にかすがにあっている。
元がいいから、かすがは下手なものを着ない限り、なんだって似合う。
「遅い」
現れた佐助を、三白眼で睨みつけてくる。本心を全く隠さないその態度に、佐助は思わず笑ってしまう。
「悪い。待たせてごめん」
「その態度、全く謝る気がないな」
「そんなことないって。
で、どうしたんだ、いきなり」
「いきなりじゃない。何回もメールを入れたはずだ」
「悪い。実はそれ見てない」
「……全くお前という奴は」
ため息をつきうつむいた。額を押さえうめく。
しかし、次の瞬間にはがらりと変わり、気の強さを示す、鋭い光を目に浮かべている。
「話がある。さっさと準備してこい」
「出かけるのか?」
「そうだ」
部屋に上がればいいのにと思ったが生真面目なかすがのことだ。
女の子の部屋で二人きりになるのは気が咎めるのだろう。
例え何もする気がなくても、気をつかう。
佐助は、元は男なので分かるところがあったから、部屋に戻り財布を取りに行った。
すぐに戻ってきた佐助に、かすがは眉をひそめる。
「寝癖くらい直してきたらどうなんだ?それに、上着くらい着てこい」
また睨まれて、佐助はかすがの言う通り寝癖を直し、七分袖のシャツを着た。
「これでいいんだろ?」
佐助はおどけるように言って肩をすくめた。
かすがはみだしなみを整えた佐助に、ようやく家から出た。
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09.01 四既