おもう

最初から隔てられた位置にいるのだ。
いわば対岸で向かいあっているようなもの。二人の間には決して渡ることの許されぬ川がある。
深い、冷たい川だ。川に入ろうとしてもその冷たさに全身が凍え、底の見えぬ混沌とした川に恐怖で体が震える。意を決してその川を渡ろうとしても激流に飲まれ流されるだろう。二人は決して、触れ合うことはない。
どれだけの時を重ねたとしても、どれだけ祈りを天上に捧げても、どれだけその変えられぬ事実に泣き叫んでも。

「触れてもいい?」

忍の問いに主は可笑しそうに口元を歪ませた。哀しげな忍とは対照的なその表情。

「触れたければ触れればいいではないか」

自分を必死に呼んでいた小さな主は、目がくらむほど立派な青年になった。それを嬉しく思うことが自分の役目だと言い聞かせないと、佐助はこぼれそうになる涙を抑えることができなかった。
主に必要とされることが当然だと、傲慢な心はどこかでおもいこんでいた。佐助にとっては命に代えられないたったひとりの主であったけれど、幸村にとってはそうではなかった。
たくさんいる部下のうちのひとり。
ただ、それだけでしかなかった。
昔から、自分たちは川の対岸で向かいあっていた。けれど、その川は年を増すごとに、大きくなっていると佐助は感じた。
当たり前のこと。当たり前のことなのだと、何度も己に言い聞かせた。鳥の雛が成長し巣を離れ親の手を必要としないように、猿飛佐助という彼を育み愛情深く育てた個人の意思はもう必要ないのだ。
今、彼にとって必要なのは、猿飛佐助の持つ忍の技だけ。
武田信玄の天下統一に役立つ、忍としての技術だけなのだ。
佐助という男が抱く、幸村への感情など、不要なものでしかないのだろう。
忍の技を喪い残るものが幸村への思いだけになったならば、自分は幸村の傍にいる価値はなくなる。対岸から見つめることすらできなくなる。

佐助が恐怖するのは、幸村の傍にいることが許されなくなる、いつか確実に自分に訪れる未来。
戦や任務の果てに訪れる死なら、いい。幸せだった過去の思い出を抱いて死んでいける。
けれど、別れが幸村に自分が必要ないと判断し、排除されるとき、己はどうすればいいのだろう。
愛しき主に捨てられた絶望を抱いたまま、死ななければならないのだろうか?

その想像は、身を引き裂かれるような痛みを佐助の中に生んだ。
それが当たり前。それが当たり前なのだ。
どれだけ言い聞かせても、理性では幸村を思うことは無駄なのだとどれだけ自分自身に訴えても、省みられることなどない幸村への思いは決して消えそうにない。

「お前は普段、笑ってひとを平気でからかったり、嘲ったりするのに、たまにとても臆病になるな」

夜の帳が二人を包みこむ。ひんやりとした冷たい空気が、まるで幸村の本当の答えのようで、佐助は幸村に触れることを躊躇った。思い過ごしなのかもしれないと思い込めるほど、佐助は幸村の優しさを信じていない。

触れてもいい、と許可を出すのはよく働く忍への報酬程度の思いしかないのだろう。そこに好意は含まれず、給与を機械的に受け渡すかのように冷ややかだ。
幸村が、望まれれば彼を慕う部下たちを抱き、信頼を集めその結束から戦を何度も勝利に導いていた。
幸村は恐らく、佐助が望めば躊躇いなく抱くだろう。人の心を捕らえる術に長けた彼であれば、佐助の望む優しさを与える。それが偽りであるという事実を忘れてしまうくらいの暖かさを惜しみなく与える。
佐助は、自分の抱く思いを貶めたくないから、幸村に肉体の関係を求めることは永遠にしないと誓っている。
穢れてしまった体だけれど、その心に抱く思いだけは、綺麗なものだと信じたいから。
それでも耐え切れぬ思いは、幸村に触れることで解消する。川が消えることは願わなくても、いつか、少しでも二人の間にある川が小さくなりその距離が短くなりますようにと祈りながら。

抱く思いを告げることは一生できない。拒絶されることが怖いのではない。告げても幸村は何も考えず、佐助の好意をなにも考えずただそうか、としか受け入れないような気がしてそれだけが怖いのだ。
忍風情が、と佐助の感情を知ったら笑うかもしれないが、佐助は自分の真剣な思いを真剣に受け止めて考えて欲しいと思っている。
嫌うなら嫌って欲しい。自分のことで心を揺り動かし、感じて考えて欲しいのだ。
自分の感情が流され、ただ事務的に幸村の中で処理されることなど、考えたくもない。
けれど、それが告白の後に訪れる未来なのである。
忍に好意を抱かれても、それに返すものを彼は何も持たない。彼の心は佐助の抱く恋情とはかけ離れた遥か高みにあって、それ以外に心動かすことないのだ。決して。幸村の心を突き動かすのは敬愛する武田信玄と宿敵である伊達政宗だけだ。

下手をすれば、好きならば抱いてやろうか?と他の者と同様に扱われる。それも、嫌なのだ。

だから佐助は、幸村に触れる。触れることだけで、切ない恋心を満たそうとする。

許可を下したのに一向に触れようとしない佐助に幸村は首をかしげる。
佐助の中で葛藤や惑いがあるなど彼が知る由もない。

「佐助?」

佐助はなんでもないと首を振る。だが、幸村に触れようとしない。
昼の暑さが嘘のように開け放たれた窓から冷たい空気が流れこんでくる。薄い浴衣しか着ていない二人の肌をぞわりとする風が撫でていった。
怪訝そうな幸村と、佐助は顔を合わせることができない。自然佐助は顔を俯かせることになる。
今度はそうすると堪えていた涙が落ちそうになって、佐助はどうすればいいのかわからなくなった。

顔は、上げられない。顔を上げないと今度は涙が流れてくる。

忍なのに情けない話だ。感情の制御すらできない。
胸の内で自分を笑ってもなんの救いにもならず、佐助はどうすればいいのか答えを見つけられぬまま、結局目からぼろぼろと熱いものをこぼした。

ふうと幸村は息を吐いた。

「なんだか最近佐助は泣いてばかりだな」

言いざま、幸村は佐助の体を引き寄せる。佐助は突然抱きしめられたことに驚き、体を強張らせた。
硬直したことを感じ取り、幸村はゆったりと笑う。

「体の力を抜け。別に取って喰うわけでもないのだから」

耳元で囁かれ、敏感なそこが僅かな吐息に反応しそうになる。佐助は跳ねそうな体を抱きしめた。
それは幸村の言葉とは全く逆の行動で、堂々と自分の言葉に逆らう忍に幸村は苦笑し、佐助の目尻を指の腹でぬぐった。己の指を濡らすそれを口に含み、何故泣くのだ?とたずねる。
頑なに忍がそれを秘すので幸村はその答えを知ることが出来ない。

佐助は俺に逆らってばかりだ、と幸村はそれを叱るわけでもなく呟く。忍が自分の言葉にまた一段と張り詰めたのが分かった。その理由が分からず幸村は首を少し傾げるが、腕のなかにいる忍がまた泣き出したので、それの涙をぬぐってやることに夢中になり、その理由を考えるのを止めた。

忍はいつも戸惑いがちに幸村に触れる。幸村はそれがもどかしくなる。
だからこうやって引き寄せては、離さないように、自分を感じるように強く抱きしめる。
寂しがりやな佐助には、きっとこれくらいが丁度いいのだろう。
その証拠のように佐助の体から徐々に緊張が抜け、幸村に身を委ねるように体重を預けてきた。

涙は止まらない。佐助は一度泣き出すとなかなかとまらないのを知っているから、幸村は慰めるように佐助の背をなでる。

佐助は大切な部下のひとりだから、大事に優しく扱わねば、と思う。敬愛するお館さまも、部下にはときに厳しく、そして優しくするものだと教わった。

他の部下に関してはときに厳しく、を実行できるが、佐助が相手となるとどうもそれが出来なくなる。幼いころから知っている相手のせいか厳しくされるのはむしろ自分のほうだったし、最近の佐助のか弱く頼りないような姿をみていると厳しくなんてしたら壊れてしまいそうで、優しくしてやることしかできない。

誰かひとりを重用することはいけない。そう学んだ幸村は、出来ることなら佐助とずっと一緒にいてその繊細で壊れそうな心を守っていてやりたかったが、信玄のいうことは正しいことと認識してしまう幸村は、求められるままに家臣たちを抱いた。

衆道は主と僕の結束を固める手段として必要なのだと言い聞かせ、寄せられる好意を悪いと思いながら聞き流し、ただ淡々と受け取ることの出来ぬ思いに胸を痛めながら、その償いのように優しくした。

そうするたびに、まるで自分が心が空っぽの人形になっていくような錯覚を覚えた。

そんな己の心を癒してくれたのは、佐助の存在だった。
佐助が己を求めてくると、暖かく胸が満たされる。
昔のように自分から求めることは恥ずかしくて出来ないけれど、その代わりのように佐助から触れてきてくれるので、自分から触れるのを堪えることができた。

けれど、幸村はある日気付いてしまった。

自分たちの間には決して渡ることの許されぬ川がある。
深く、冷たい川。川に入ろうとしてもその冷たさに全身が凍え、底の見えぬ混沌とした川に恐怖で体が震える。意を決してその川を渡ろうとしても激流に飲まれ流されるだろう。二人は決して、触れ合うことはない。
それは離れていってしまった心の距離なのだと思う。
幼い頃にもその川はあった。けれど、その川はあるのかないのか分からないほど、本当に小さな川だったはず。
当たり前のように触れることができて、呆気なく飛び超えられる距離のものでしかなかったはず。
それが、年を経るごとに大きくなっていった。

佐助の心は、幸村が触れることのできぬ遠くに行ってしまった。それが酷く哀しかった。

佐助が泣いている。その理由も知ることが出来ない。
佐助がずっと抱えている不安や恐怖から、佐助を救いだすことができない。それが酷く悔しかった。

何故、二人を隔てる川は大きくなってしまったのだろう。
最初にあった川は身分の隔たりでしかなかった。
幼い幸村はその意識もいつか変えることができると信じて疑っていなかった。だが、現実はどうなのだ?

昔以上にふたりの心は離れてしまった。

佐助は自分に本音をぶつけてくれなくなった。

ただ寂しさを訴え、どんなに幸村がそれを癒そうとこころ砕いても、幸村が悪いのかなにが悪いのか、佐助の寂しい心は癒されない。
硝子細工のように繊細で綺麗で、反面脆いこころは今にも壊れてしまいそうで、幸村は怖くて仕方がない。

なあどうすればいいのだ。

幸村が問うても佐助は決して応えない。

幸村はただ、佐助が求めるままに己に触れさせ、その躊躇う手を引いて、抱きしめることしかできなかった。

****

お互いに離れていく心を見つめていくのは、絶望を見続けるのと同意だった。
胸を穿つ苦しみに、これは仕方のないことなのだと思い込み、蓋をする。
今以上に傷を作るのが怖い。自分が動くことで緩やかに離れていく相手の心が、もっと見えないところまで行っていまうのではないかという恐怖が二人から勇気を奪った。

怖いのだ。
出来るのはただ触れ合うことだけ。
そのひとときがふたりの心を癒す。
それは本当に一瞬で、その一瞬の安らぎを少しでも長くしたいがためにともにいる時間が長くなった。

それに錯覚をする。

(旦那は、俺のことを必要としてくれるようになったのだろうか……
だって、小姓や旦那の部下の武将が抱かれることを頼んでも、決して首を縦に振らない。俺が口に出さなくても、俺と一緒にいてくれる)

(佐助の心を癒せることができているのだろうか?
佐助は俺にこうやって抱きしめられていることに安堵しているのだろうか?なんとなく、佐助の顔が安らいで見える。幸せそうに見える……)

ああけれど、それは錯覚なのだろう。

(なにを馬鹿なことを……)

(俺の思い込みか……)

でも、こうやっていると、少しずつ隔てる川が小さくなっていく気がするのだ。少しでも互いの心に触れ合える気がするのだ。

気がするだけで、確かな手ごたえなど全くないのだけれど。

(貴方の心に触れたい)

(お前の心を知りたい)

祈るだけでそれは叶わない。
ああ、川がどんどんと大きくなる。



ネタ提供ありがとうございます。小鹿さま
ふたりのこえられぬ壁を、"壁"という言葉をつかわずにあらわしてみる。
ちなみにサンホラのとある曲のとある一部分を拝借?
つうかぜんぜんか壁と違うじゃんという。
佐助が可愛そうな話。
男佐助になるとなんでかホント女々しいな。
女助のほうが勇ましいよ。
すがるの続編かリンク話を意識。
でも、違う、なんとなく違う。
幸村と佐助のすれ違い。一体何処で間違えたのか、一体何処で佐助は幸村を信頼できなくなったのか。それは佐助のせいなのか幸村のせいなのか。
でも、なんだかんだいってラブラブじゃあないですかあ。
佐助の思いと幸村の思いにどことなく差があるにせよ






2007.08.12 四既