それは同情なのかもしれない。けれどすがる手を振り払うことなどできなかった。

***

幸せと言えば、幸せに違いない。

悔しいと言えば、悔しいに違いない。


幼き頃より己の側近くに控える忍に恋人ができた。


それは推測の域を越えないものだが、そうだ、と断言できるほど確信に満ちたものであった。


最近佐助の傍らに立つようになった男の、佐助に向ける目のなんと優しいこと!

それに返す佐助の笑顔は幸村には一度として見せたことのない、嬉しそうな笑顔だった。


幸せなのだな……


幸村はそれを見つめ、胸中でつぶやいた。


いつも辛い思いばかりさせている。

誰よりも優しい心を持っていることを知っている。

そして、とても大事な人。

その人の幸せをいつも祈っていた。


だから、その男と佐助が共に居られることは幸村にとっても喜びであった。


大切な人の幸せを願わぬはずがない。


ただ、母を誰かにとられたような、そんな悔しさだけが幸村の中に残った。

幸せそうな佐助の表情を見るたびに、それすらも薄まり、心の底から祝福できるようになるまで、時間はかからなかったけれど……


***


「愛してるよ」

穏やかな声音を耳元で囁かれる。それはあまりにも優しくて、閨の睦言には聞こえなかった。

甘い痺れが、耳から腰に伝わる。

その言葉がもっと欲しくて回す腕に力を込める。

「なあ、もっと言ってくれよ。あんたに愛してるって囁かれれば囁かれるほど、俺のなかのどろどろした感情が消えていってくれる気がするんだ」

佐助が子供のようにねだるとくすくすと笑い声が落ちた。

愛しむようにゆるゆるとその頬を撫で、また囁く。

「愛してるよ。だれよりも」

ふふ、と少女のように頬に朱をおとし、佐助は晶に唇を寄せた。

甘く言葉を囁き返すと思われたが、熟れた口から溢れるのは、なんとも無粋なもの。

「お前が諜報の任務に一度として失敗したことのない理由がよくわかる。嘘をついているにすぎないのに、まるで本当の気持ちを告げられてるみたいだ。嘘を見抜くのにたけた俺ですら騙されそうになるんだ。単純な武将など、簡単におちるだろうね」

甘ったるい声であるのに、何処か冷静さを滲ませる言葉。

晶はそれに眉を寄せて、責めるように口付ける。

お互いを貪るような執拗な口付けを交したあと、彼は悲しそうな表情を見せた。

「長。今は仕事の話をしないでいただきたい」


「ああ、悪かった。わかったよ。謝る。もう二度と仕事の話しなんかしないから、長と呼ぶのはやめてくれ。今だけは『佐助』と呼んで……」


今この時だけは忍隊の長という立場を忘れさせて。
ただの女に戻って、人肌を感じてうんと甘えたいんだ。


「晶。もっと強く抱き締めてよ。あんたのことしか考えられなくなるくらいに……」

「ああ」

佐助の細い体に回す腕に力を込めた。
晶は求められるままに佐助を抱いた。

「愛してる」

偽りの含む優しい言葉を告げられて。

それに溺れるように佐助は乱れる。




晶はそれに罪悪感を覚えた。

求めらるままに、乞われるままに、優しさを与える。
優しさを与えるたびに、目の前の女が弱くなっていく気がして……

冷徹な忍に戻れなくなる気がして……

ただの女を戦場に放り出す残酷な行為の手助けをしているような気がして……


それに謝罪するように、許しを乞うように、「愛している」を繰り返す。

意味の無いことだというのに。
更に罪を重ねているだけだというのに。

でも今更この罪を重ねるだけの交わりをやめることはできない。


優しさを与える存在を。
甘えることが出来る存在を。

ただの女に戻れる場所を。

いっぺんになくしてしまったら、この人は壊れてしまう。


「寂しいんだ。苦しいんだ。」


感情を押し殺そうとして、自分の体を抱き締めカタカタと震えていた。

放っておくことが出来なくて、先に手を伸ばしたのは自分。


誰よりも優しく弱い、そして嘘吐きな貴方を慰められるのは、同じく優しく弱い、そして嘘吐きな俺にしかできないと思ったから。



***


なんで、今更昨日のことが思い浮かぶのだろう。

何故、何故、何故?

戦の最中にそんなことを思い出していたら命取りでしかないのに。

やめろと思っても、浮かぶのは『女』を慰めたときの記憶。

あれ?

何故だ?

体が動かない。


「……き…!」

「あ……ら!」

「……きら!」

「あきら!」


必死に自分を呼ぶ主の声に、泥の中でもがくような意識が明瞭とした。


「ゆき、む……らさま……」

ああ、そうか。


俺はこの人をかばったんだ……



そして、命の助かりようがない傷をおったんだ。


「おい!晶!しっかりしろ!」

幸村は顔を真っ青にして、俺に呼び掛けている。

ああ、俺、死ぬのか。

不思議と、死ぬのは恐くなかった。

ただ、あの人を残していくのを申し訳ないと思った。
(申し訳ない、か……)

死ぬ間際になって、自分の本音が漏れたと思った。

おれはちっともあの人のことを思っていなかった!

自分が罪悪感から逃れるためにあの人を抱いていたにすぎなかった!

葛藤も懺悔も。

もうしなくていい。

それにほっとしている。

残される貴方が哀れだと、ただそれだけを思った。

「幸村さま……」

この言葉を残すのは、別に誰でも良かった。

才蔵でも、他の忍隊のものでも。

目の前にいた。

それだけの理由で遺言を託す。

「あいつは、と……ても寂しがりやなん、です。
弱い……んです。
俺が死んだら、あいつはきっと泣く……から


一緒にいて、慰めてやって下さい。


何度も何度も抱いた体が、他の男の物となろうとも。
貴方の涙さえ止まればそれでいい。


嫉妬すらうまれないこの想いは、愛とは呼べないだろう。


名を付けるとしたら、ただの同情だったのかもしれない。


****


その訃報を聞いた瞬間に、佐助の体はくずおれた。


「嘘だ…… 」

「嘘でしょう?旦那?」

涙はなかった。


困惑した顔で、嘘だ。嘘だ、を繰り返す。

「本当だ……すまぬ。奴は俺をかばって……」

幸村の言葉を佐助は聞いていなかった。


そんなそんなそんな。

聞いた事実を否定するように首を振る。

晶が死んだ?

昨日、ぬくもりを感じたばかりだというのに!

その証がまだ体に残っているというのに!

「晶、晶、晶……!」

うわ言のように何度もその名をつぶやく。

「あいつが俺を残して死ぬはずがない!」

「優しいあいつが、俺をひとりぼっちにするわけなんかない!」

叫びすぎて喉がひりついた。

呼吸が難しい。


その様子を見かねて、幸村が佐助の肩を揺さぶる。

「佐助!」

「いやだ、いやだ、いやだ」

焦点のあわない目で首を振った。

優しさを知ってしまった。
今更ぬくもりのない夜を過ごすことなんてできない。
偽りでいい。

それ以上なんて求めない。
欲張りなんてしなかった。
なのになんで、俺から奴を奪うんだ!

「佐助!」

名を、呼ぶ、声。

それは、求めているものと違う。激しく、熱く、命のこもった。

うすっぺらくていいんだ。
ただ優しく俺の名を呼んで。

甘い囁きがほしい。

愛撫と。

口付けと。



「ああ、あぁ。いやだ。俺はもう一人になりたくなんかない!」


「佐助、俺がいる、俺がいるから!落ち着け!」

佐助の顔をぎゅっと包みこみ、目線を合わせるようにする。

虚ろな目に初めて涙が溢れ落ちた。

「なんで、いないんだ……」

寂しい寂しい寂しい……

寂しくて淋しくて、一人が嫌で、ぬくもりが欲しくて、

優しさが、心地よさが、安心が、甘えられる場所が、ただの女に戻れる場所が、今欲しくて仕方がないのに!

「ああ、晶。ひとりにしないで。あんただけなんだ。あんただけだったんだ!俺の心を埋めてくれるのは!」

叫ぶ女が自分を見ていないのはわかっている。

それがもどかしくて幸村は佐助を抱き締めた。

「佐助、すまぬすまぬ……」

謝る以外のことができない。

錯乱したように泣き叫ぶ佐助。

抱き締める腕に力を込めた。

「ぬくもりなら俺がやる。ひとりになんか絶対にしない。だから泣くな。泣かないでくれ。俺を見てくれ……!」

その言葉に、ようやく、佐助は幸村を見た。

「本、当に?」

疑う眼差し。

けれど初めて自分のことを見てくれた瞬間だった。

幸村は頷いた。

「ああ、絶対に。絶対に……」


晶との約束。

晶への償い。

なによりこのような佐助を放っておくことができなかった。


「ああ、だったら……証を頂戴……」

常世を見つめる瞳ではないと思った。酔っ払ったような、理性を手放した目。

「証?」

幸村は繰り返した。

「何が欲しいのだ?」

「『愛してる』って、言って。偽りでいいんだ、嘘でいいんだ。本気なんか求めないから、ただ言葉がないと不安で、恐くて仕方がないんだ……」

晶の代わりなんて言わない。
そもそも晶の代わりになれる人なんて、この先二度と現れるはずがない。

俺のこと全部理解してなんていわないよ。

ただ、愛してるって囁き続けてくれればいいんだ。