ただひとり、自分と対しながら誰も救ってくれない絶望に泣いていればいい。
暗闇に囚われ、抜け出せない悲しみに嘆けばいい。
実力とそれにともなう誇りがあった忍が女のように囲われる屈辱。
人に屈服させられる様を見られる恥辱。
痛みを味わい狂えばいい。
幸村が佐助に与えたいもの、それは逃れられない絶望。
支えられないものが無い中で嘆き苦しませるために、たったひとり屋敷におく。
しかし、永遠にその状況に佐助を置いても、幸村の中にわだかまるものは晴れる気配がない。
腹腔奥深くからせり上がり、幸村に訴えかけてくるものは、血潮をざわめかせ、幸村に残虐な行為をさせる。
それは消える気配なく幸村を苛み、当然発作のように訪れたそれを幸村は殺すことが出来ず、彼はまた佐助のいる屋敷にむかった。
いつも、佐助がたたずんでいる部屋に向かう。
そこには何処かあきらめたような表情で自分を出迎える佐助がいるはずだった。
しかし、幸村の予想は裏切られる。

「佐助……?」

久しぶりに、影の名を呼んだ。
望んでいた返事はなく、幸村は愕然とする。

(……逃げたかのか?)

ぽつんとした寂しい屋敷にひとり取り残される。闇に飲み込まれるたが佐助ではなく、自分のような錯覚があって、幸村は首を振った。
佐助がいないという事実に、幸村は一瞬、確かに視界が暗くなったのだ。その、視界だけでなく五感全てを闇に包みこんだそれは、名づけるとしたら絶望に近い。
かつて、これに近い感覚をあじわったことがあった。鳥肌がたち、恐怖のようなくらむ眩暈が襲い、背筋が凍るような寒気と燃えるような怒りが湧き上がる。
まさか、という思いと当たりまえだという思いが幸村のなかで渦巻いた。
当たり前だ。やつの足を留める足かせもつけていない。やつを見張るものもつけていない。逃げようとおもえば逃げられる状況。身を虐められるだけの行為を続けられれば、逃げたくも成るだろう。
しかし、佐助は自分から逃げないという、確信があったのも事実。幸村からしてみれば、佐助の抱く馬鹿げた罪悪感が自分のもとに縛っておくには十分なものに思えたのだ。
自分にはけして逆らわぬ忍。
そう、思い込んでいたのが間違いなのかもしれない。
それに、やつはもう忍の力を失い忍ではない。
だから……逃げたのだ。
罪悪感も、奴を繋ぐ鎖にならなかった。

「所詮、奴も、それだけの男だった……それだけの……」

逃げられたところで、追う必要なんてない。
むしろ、そのまま忘れ去ったほうがいい。
そうほうがきっと幸せなんだ。
辛い過去の記憶を自分のなかで葬りさって、最初から何もなかったことと思えばいい。
奴だって、悔いている。十分すぎるほどの報いを与えたはずだ……
今更……逃げた佐助を追い、とどめを刺すこともあるまい……
幸村は、そう自身に言い聞かせるのだが、足の震えが止まらなかった。
いや、全身がかたかたと震えて、止まらない。
それは“もの”如きが主である自分から逃げていった怒りなのだろうか。
叫ぶように訴えてくる憤りが、それをぶつける対象を求め荒れ狂った。
身を焼く苦しみが幸村を襲い、報復のための怒りとも八つ当たりともつかぬ感情が幸村の中で存在を主張し、幸村はじっとしていることが出来なかった。
もとより理性で動くことの出来る性質ではない。
幸村は佐助を探すために外に出た。
感情が訴える。幸村に命じる。探せ、佐助を探せ。
理性が訴える。幸村に命じる。探すな、いっそのこと奴を殺す命でも忍に下せばいい。

(そう、遠くまで逃げてはいないだろう)

あれの体が自分ひとりではろくに動かぬことを知っている。
だが、もし協力者がいたらどうする?
あれは忍隊のものたちに慕われていた。もしかしたら忍隊のものが見かねて奴を離れから連れ出したのかもしれない。

(どちらにしても、佐助は許しておけぬ)

許可なく己の元から消えた。
この離れから出ていった。

(お前はここで永遠に嘆いて死ね)

それが、俺が与える影への罰だというのに。
逃がしやしない。
この籠の中で飼われていろ。
他の誰かにすがって幸せに生きるつもりなのか?
俺から逃げて、自分ひとりのうのうといきるつもりか?

(許すものか)
『もう、いいのではないか?』

同時に聞こえるもうひとつの声。
幸村はそれを無視した。振り下ろす先のない怒りを、何処にぶつければいい。魂ごと揺さぶられるようなこの思いを何処にぶつければいい。
あの男ではないと、駄目なのだ。
それは十勇士をはじめとする家臣など、自分を慕ってくれるものたちを傷つけたくないという配慮なのか。
それは佐助を焦がれるあまりに幸村を揺り動かす激情なのか……
自分のなかで蠢く感情ではあるが、幸村はそれに答えを出さぬまま、佐助を探すために急ぎ忍たちを呼んだ。

*****

佐助は呆気ないほど簡単に見つかった。
人を呼んで探すまでもなく、屋敷の近くで倒れていたらしい。
いらぬ手間をかけさせたと幸村は忍たちを労い、礼を言う。
忍のものたちは幸村の自分にたちに対する態度と佐助に対する態度の違いに腑に落ちぬものを感じながら、幸村の丁寧な態度に毎回のこととは言え恐縮する。
あるものは佐助に気遣わしげな視線を送り、去っていった。

「慕われておるな」

幸村は忍たちの気配が見えなくなってから幸村は冷たい声を落とした。軽蔑が含まれているのに、幸村は声の剣呑さとは裏腹の笑みをみせる。口元だけうっすらと笑っているそれは、目だけが笑っていなかった。
こんな表情をする人ではなかった、と佐助の胸に痛みが走る。それと同時に、腹の中でなにかどろりとしたものが動いた気がして、佐助はそれに恐怖と嫌悪を覚えた。
佐助はそれを押し殺すように胸を強く掴んだ。
汚れた着物に醜い皺がつく。

「そうでもないよ」

そう、答えるのが精一杯だった。
気に入らぬ返答だったらしい。幸村の眉間に皺が刻まれる。
幸村は壁にもたれかかるような格好でようやく身を起こしている佐助を蹴った。
幸村はよほど気に入らないことがない限り、顔は殴らない。傷で腫れあがった醜男(しこお)など抱きたくないからだろう。
幸村の足が入ったのは面積の広い腹。その衝撃と痛みが内部に広がり、佐助はうめいた。
最早、声を抑える気力すらないらしい。佐助はげほげほと咳き込み、畳に倒れ伏す。
圧倒的に弱い立場のものを苛むなど、幸村の趣味ではないが佐助の場合は別。
今度は背中を蹴り上げる。
佐助の体は鈍く跳ねる。

「がっ……はっ……!!」

内部からじくじくと攻め立てる痛みと、幸村の振るう暴力により、佐助の視界はぼやけ、意識が朦朧とする。
佐助は胃液を吐きだした。それを幸村は汚いとあたりまえのように罵る。
冷たい声音に、佐助は絶望しない。幸村に暗い闇の一面を作ってしまった罪悪感と後悔がある。
しかし、彼は自分だけにそういう態度を取るのであって、他のものには変わらない優しさを与えている。
佐助はそれだけで救われる思いがした。
それで自分の侵した罪が軽くなるわけではないけれど、幸村の本質は自分なんかでは汚せないことに、安堵した。
ほっとすると同時に、何か……満たせぬ思いを抱えていたのは事実なのだが……
人の心とは矛盾しているものだな、と定かではない思考でつぶやく。
ろくにものを考えることが出来ない頭に、幸村の足が押し付けられる。

「何処に行こうとしていた?」

幸村は佐助の頬骨をぎしぎしと軋むまで踏む。

「まあ、問うまでもなく分かりきったことであったな。お前は俺から逃げようとしていた」

それだけのこと。
ひとりごち、幸村は佐助を踏みにじる。

「……ちが」

佐助は痛みと、意識がさらわれてしまうような感覚に耐えながら、否定する。

「……くすりを……」

憎まれて、囲われて、暴力を振るわれて。幸村にとっては傷つけても傷つけてもたりぬ男で。
そんな自分が薬を必要として幸村のもちものである忍隊にものをもらいに行くなど、幸村からしては許せぬ話だろう。
痛みを与えられるだけ与えられることが罰だというのに、それから逃げるために言いつけまで破って、与えられた屋敷から出て行って。
叱責されるのは覚悟のうえだった。
言い逃れはできないと思っていた。
ただ、逃げるつもりはなかったということだけは伝えたかった。
それで幸村の怒りが軽減されるわけがないと分かっていても……
幸村から逃げようなどと思ったことはないのだ。それを伝えたかった。
案の定、幸村は佐助の訴えを嘘だと否定した。

「逃れたかったのだろう?お前は。俺に陵辱され、屈服され、痛めつけられるのが嫌だったのだろう?」

幸村の足は引いた。
幸村は佐助の傍らに膝をつき、人形のように力を失っている佐助の懐を掴む。
強引に目を合わせられる。
……昔はあけすけな感情に苦い思いのこもった憧憬を覚えた。綺麗な色。ただ、傍にいるだけで癒されるような、美しい魂。
比喩でも世辞でもなく、佐助にとって幸村とはそういう存在だったのだ。
今は……罪悪感と、胸が早鐘を打つような、こらえ切れない、けれど蓋をして封じてしまいたいような感情が、幸村にむかう。
鈍い痛みと、痛み以外が生む痺れと。全身が黒い気配に支配され、歓喜で叫びたくなるような衝動。
佐助は己を笑う。自分は自虐趣味でもあったのかと。痛みを快感と捕らえるなんて、なんて嫌な性癖だろう。
内心にだけ留めておこうとしたものが、表にあらわれ佐助の唇が薄く歪んだ。
それは幸村の逆鱗に触れる。

「……何がおかしい……っ!」

佐助はっとして表情をあらためるが、もう遅い。
幸村の瞳は烈火の怒りに狂っていた。

……お前は絶望せねばならぬのに、何故笑う!?
もっと打ちひしがれろ!
闇の中で彷徨う孤独に泣け。
お前の中にあっていいのは、俺が与える絶望だけだというのに!
何故、お前は笑えるんだ!?

「俺が知らぬ間に誰かと会っていたのか?」

幸村は、はたと思いついた考えを口にする。
でなければおかしい。
誰かと会い、傷ついた心を癒していたのではないか?
だから、佐助は俺が望むように堕ちないのではないか?
暴力にひたすらに耐え、ここにいるのではなか?

(その、誰かと会うために) 

裏切られた気がした。
否、馬鹿にされたのだ。謀られ、こけにされた。
命を聞かず、自分以外の誰かにすがった。

そのようなこと許せるはずもなかった。

(こいつは俺のもの)
違う。独占欲なんかじゃない。救われていいはずがない男が救われようとしているから、それがゆるせぬだけで。

(俺以外の誰かに、笑みをむけ、涙をこぼしすがったのだろうか)
渦巻くのはなんだ。脈が速くなるのは何故だ。怒り以外のものが自分を支配しようとしていた。それに身の毛がよだつ。なんだ。なんなのだ?この男は俺を怒りと憎しみ以外の何かで俺を揺さぶる。

佐助の細い腕が、男の首にからみ、男がそれをいとおしげに抱きしめ、佐助がそれに安堵し、泣きながら笑みを浮かべる光景。

ふいに、そんなものが見てきたように目の奥に思い浮かび、幸村はそれに雷でもうけたような衝撃を覚えた。
体中を駆け巡る、怒りに似た獣。血流にのってそれは幸村を指先まで支配する。

(なんなんだ。なんなんだ。なんなんだ!!!)

幸村は名前の知らない激流のような感情に混乱する。
これを今すぐに自分の腕で抱かなければ、不安に押し殺される。
怒りや憎しみ以外で、佐助を抱こうとおもったのは初めてだった。
否、抱きたいと、純粋にそうおもったことすら初めてだった。
今までの情交は、佐助を傷つけるためだけのもの。
抱きたいと思ったから抱いたわけではない。
性欲とは違うもの。
ただ、不安を埋めるために背に伸ばした手。

「旦那……?」

子供がしがみつくように抱きしめられ、佐助はそれに戸惑う。
幸村が自分を抱きしめるなど、ここに来て一度たりともなかったというのに。

「奪ってやろう……」

幸村は佐助の耳元で囁いた。
その言葉に佐助はぼんやりとなにをいまさら、と思った。
忍の力も奪われ。
男としての姿も奪われ。
自由も奪われた。
今度はなにを自分から奪っていくのだろう。
命だろうか?

「俺から逃げていく、その、足を……」



失うことが怖かったわけじゃない。

逃げようとしたことが許せなかったのだ。