佐助はおぼつかない足取りで、久しく訪れなかった忍隊の宿舎に足を踏み入れた。
ぎし、と聞きなれぬ廊下の軋み。足を踏み出すごとに音がたつ歩き方は、佐助が忍としての力を失ったことを証明していた。
「才蔵……」
佐助は才蔵が使っている忍隊の医務室にもあたる部屋に訪れた。
薄くにおう、古い木のにおい。
そろそろと障子戸を開けると、そこには見知った友の姿はなく、元、部下である忍がひとり。彼は突然現れた佐助に驚く。
佐助が誰の目にも触れないように囲われているのは周知の事実。
そこから抜け出してはいけないことも、皆が知るところである。
「長……」
動揺と、気まずさ。
何事にも動じないように訓練されたはずの忍が、佐助から目を逸らした。
かつて、真田忍隊長として戦場を駆け抜けた男の今の姿を直視することは、忍にとっては難しいことである。佐助は若い忍たちの憧れと尊敬の対象であった。彼のような忍になることを目指し、忍隊でその実力をふるっていた。しかし今や佐助は、主である幸村に飼われているだけの存在に成り果てた。
「才蔵殿はおりませぬ……」
「そうか……仕事?」
忍ははい、とうなずく。彼は佐助が長ではなくなった後、その後任として、働いている。
無事ならいいよ、と佐助は微苦笑して、薬はもらえないかとたずねた。本来の目的はそれである。才蔵に会うためではない。
だが、できることなら才蔵にも会いたかったな、と心中呟き、佐助は忍から軟膏をはじめとする外部薬、風邪薬や熱冷ましをもらった。
「このようなところに来て、大丈夫なのですか?長」
心配する色の目で尋ねられ、黙ってきたんだ。と肩をすくめた。
かつての、長としての威厳を取りつくろうつもりではないが、自分の身を案じるこの忍に悲壮な表情をさせたくなかった。佐助はせめてものように、明るく振舞う。
「だから、早く戻らなきゃいけないんだよ」
長く話しはできない。
佐助は忍に礼を言い、そしてこのことは内密に、と頼むと身を翻し障子戸に手をかけた。
昔と比べ、悲しいほどに頼りなくなった背中に、忍の問いがかけられる。
「長は……逃げないのですか?」
今ならば、逃げられるのではないか。
幸村がいないときに、いつだって逃げられたのではないか。
「すぐに捕まえられるさ。捕まって、殺される」
「殺されたほうがましではないのですか?」
忍の真摯な問いは続く。彼の言葉は佐助の覆い隠した本音を暴露してしまいそうで、佐助は胸を押さえ、震える声で、こたえた。
「俺が死んだら……あの人に対して、一生償えないし、誰もあの人の怒りを受け止められない……」
それが佐助の本音でないことくらい、忍は一発でわかった。
それでも忍はそれ以上深く追求しようとせず、そうですか、と小さくうなずいた。
佐助はそれ以上何も語りたくはなく、口を閉じ出て行く。
そのとき、もとからあまりきかなかった足から力がぬけ、佐助は廊下にくずおれた。
「長!?」
「平気だ」
近寄ろうとした忍を言葉と手で制止する。
辛い交合の名残のせいで、足腰が思うように動かないだけだ。
薬をつければ少しはよくなるだろう。
「平気だ……これくらい……あのひとの痛みに比べたら……」
*****
佐助は送っていくという忍の善意をきっぱりと断り、自分の足で離れに向かった。
もし、それが幸村に見つかってしまえば(それを目撃されるようなへまをするとは佐助も思っていないが)彼の命は恐らく無い。
真剣に自分の身を案じてくれる忍を、佐助は巻き込みたくなかった。
薬を持ち、歩きにくい着物の裾をさばく。
(馬鹿だな……こんな着物脱いでくりゃよかった)
着物が汚れていたら、外に出たことがばれるかもしれない。
庭にでていいことになっているが、庭に出たくらいではよほどのことがなければさほど着物は汚れたりしないだろう。
失敗したと呟く苦笑はやはり空元気の現れか。佐助は先ほどの問いを胸の内で反芻する。
「あの人のことを思うなら、殺されたほうがいいってことくらい分かってるよ……」
自分が拷問のような性交から逃れ安楽になるためにではなく、幸村のために、自分は死んだほうがいい。
「これ以上彼を鬼にしちゃ駄目だ……そんなことわかってるさ……」
優しいひとだった。眩しいくらいの綺麗な笑顔を見せてくれる人だった。他人の痛みに誰よりも共鳴し、泣くことができる人だった。
「俺を傷つければ傷つけるほど、あの人が傷つくのはわかってる……」
けれど、逃げ出すことも死ぬこともできないのだ。
死んで、忘れ去られて、最初からなかったものとして、彼の中から消えるのが一番いい。
彼の中にある、自分が与えた悪夢ごと消滅してしまえばいい。
死は、忘却へのきっかけだ。
忘却は唯一の救いだ。
幸村は自分が生きて、彼の傍にいる限り、佐助が与えた最悪を忘れられない。
その最悪の記憶から逃れようともがいて、佐助を犯し、殴り、嬲っても、逃れられないのだ。
俺は罪人のくせに、彼のためならなんでもすると思っているのに、唯一の救いを与えられない。
「なんでだろうな……」
忘れさせないこと。それが、俺の消極的な、現状への復讐なのだろうか?
自身で問うた言葉に佐助は笑う。
なんておこがましい。
最初に傷つけたのは己だとうのに。
彼に対して、復讐などと……
ごめん。だんな、ごめん……
佐助は離れに向かいながら、幸村に謝り続けた。
彼を前にして絶対に口にしない謝罪を何度も冷たい風にのせて、涙をながした。
視界はぼやけた。佐助は何度も何度も着物の裾で涙を拭う。
泣くのは離れについてからだ。
こんなところでくじけて泣いたら、それこそ砂埃も草木の汚れが付く。
佐助はしゃがみこんで泣きじゃくりたいのをこらえて、佐助は言うことを聞かない足を叱咤し、懸命に歩く。
ただ、歩くというだけの動作がこんなにも辛いものだなんて思っていなかった。
風のように、大地を駆け、鳥と遊び、忍が感じるべきではない“幸せ”なんてものを感じて、笑っていた日々が嘘のようだ。
鉛のように重い足。
いっそ切り捨てて這って進んだほうが早いんじゃないかと思った。
「……っぅ!」
体に鋭い痛みが走った。
鈍い痛みはずっと感じていたが、我慢できるものであったから耐えていた。
しかし、ここへきて立つことがままならぬほどの痛みに変貌する。
自分の意思とは別に、佐助は地面に倒れた。砂埃が舞い、佐助はそれを吸い込み咳き込んだ。
「っげほっ……けほ!」
佐助は起き上がろうと腕に力をこめた。佐助はその瞬間ぞっとする。
「……あ……」
視界には、ようやく屋敷が目に入っていた。
あと、たった少しの距離なのに、体が動かない。
佐助の視界の先に、屋敷に向かう幸村の姿があった。
(戻らなきゃ……急いでもどらなきゃ……)
気持ちばかり焦るのに、体は全く動こうとしなかった。