「ん……」

いつもとは違う匂いを、敏感な鼻が捉えた。佐助はゆっくりと身を起こし、現状を確認しようと目を開く。

「あっ……」

佐助の口が小さく開いて驚きの声をこぼした。視界に飛び込んできたものがなんであるか理解したとき、佐助のなかで熱いものがこみ上げて、目の奥がじんわりとうるんだ。

不意にこぼれおちるのは、涙。

佐助の傍らに置かれた、やわらかな色の紫陽花。
雨の匂いをいっぱいに含んだそれは、昔、幸村が自分によこし、捨ててしまった紫陽花によく似ているとおもった。

酷く……似ていた。嘘、と呟きたくなるほどに……

庭に咲き、雨に打たれる紫陽花よりも、うつくしく見えた。

その花に、主の笑顔が重なる。屈託なく笑いかける主の姿。

佐助は胸をつかみ、うつむく。重力の摂理に従い、佐助の頬はぽたぽたと落ち、寝巻きにしみをつくる。
熱く、切ないものが、体中を駆け抜けた。佐助は、枕元に置かれた紫陽花に手をのばし、それを愛しそうに、やさしく、痩躯の体に抱えこんだ。

それは、なにか失いたくない、大事なものを守るかのような、強い意志のこもるものであった。

それは幸せであった過去。そして……

ぎしぎしと廊下が軋む音がして、佐助ははっとして顔を上げた。
静かに障子の戸が開く。
現れた幸村と、目が合った。
佐助は、その視線から逃れられずにいる。無意識のうちなのだろう……紫陽花を守るように、けれど壊さぬように、包みこんだ。

「お前は、紫陽花が好きだな……」

嗤うような声であったが、それは自嘲の響きを持っていた。幸村が無理に口元に笑みを刻んでいるように見えた佐助は、首をかしげる。

「だんな……?」

佐助の気遣わしげによせられた眉根。案じる気配から目を逸らし、幸村は佐助の前に胡坐をかいて座る。顔は見せぬように、わずかばかり背を向けて。

「昔から……そうだな……なあ、今お前からまたそれを奪って、ぐしゃぐしゃにしたら、お前はまた、泣くか?」

組んだ膝の上に頬杖をつき、ぶっきらぼうに尋ねた。
佐助は幸村から視線をそらさないまま、そうだね、とうなずく。

「でも、渡せというなら、渡すよ……」

悲しげな声だった。そして、それ以上の愛しさを秘めた意思があった。
それに幸村の神経がやすりでこすられるような痛みと苛立ちを覚える。

「俺は……貴方のものだから…逆らえないよ……」

幸村のなかで、
(あのとき、俺が何度もやめろ、といったのに、な……
それには従わなかったくせに……)
なじる言葉が思い浮かぶ。
だが険悪に責め立てる気になれず、静かに聞き流す。佐助は押し黙り、ふたりの間に沈黙が訪れる。

幸村は、視線だけ、佐助に向けた。紫陽花を抱きしめる佐助に、おのれでは気付かぬまま、唇を噛む。

もう既に、佐助から紫陽花を奪い、昨日のように踏みにじってやりたい衝動に駆られている。
紫陽花にやけに執心することが気にくわなかった。やめてと叫ぶ声を聞くほど、壊してやりたくなった。めちゃくちゃにしてやりたくなった。

だが、それでは紫陽花を与えた意味がなくなる。泣かせたいわけじゃ……ないのだ。 もう……泣き顔は見たくないのだ。

切々と内側から訴えてくる声。

泣かせたくない……
今まで、佐助が涙を流し、痛みに気も狂わんばかりの叫びを耐えていたときも、何も、思わなかった。けれど、今ではそんな自身を責める声が、暗く淀んだ奥底から聞こえてくるのだ。 なにをした? この男に自分は、一体どれだけ残酷な行為をくりかえしたのだ?
復讐という代議名文がかすむほどの、非道な暴力。
俺は奴から何を奪った?どれほど大事なものを壊した?
苛む声に、耳を塞ぐ。
そして、今更都合のいいことを望む己を笑ってくる。

記憶のなかで蘇り、幸村の中にやさしい明かりをともす、ちいさな花のような……

佐助の笑顔を見たいだなんて……
見ることなんてできるはずない。
だって、俺は佐助を傷つけすぎた。



失う前は、それがどんなに大切なものかなんて気づかなかった。
失ってからではおそすぎるというのに