さあさあ。
記憶の中と同じように、現実にも雨が降っているようだ。
空が涙をこぼして、雨と共に落ちてきそうな危うげな天気をみせてくれるのだろう。
佐助は、うっすらと、目を開けた。

「ああ……」

不意に、嘆息がもれた。
立ち上がろうとして、失敗する。
膝の先から感覚がなかった。
飾りか何かのように膝の先に”足”に似たものがついている。
自分の一部が失った感覚。
もう、二度とこの足であるくことはできないのだという喪失感。
佐助がそのとき味わったのは、幸村の望んだ、絶望。
みじめだな。
佐助は笑う。
目覚めるまでに見ていた夢が穏やかで、幸せであったときだからこそ、その落差に、泣けた。

『空が泣いているみたいだな』

泣いている空を見たかった。自分と同じように、惨めさを噛締め、嘆く空の涙を……

『こうやって空を見ると、雨と一緒に空が落ちてきそうだな』

落ちてきそうな空を見たかった。涙を流すことだけでは逃げ切れない悲しみから逃げる空。
身投げして死を望むかのように落ちてきそうな空を。

『自分が見えるようにしか見えぬ。佐助はそれを大事にすればいい』
『それを、俺に教えてくれればいい。何を見て、どんな風に思ったか。俺も、佐助に教えるから』

空を見たい。
雨を見たい。
降り注ぐ雨。
空の涙。
落ちてきそうな空。

そして、かつての幸せを。

「ひっ……く……」

声は殺さなかった。
幸村がいないから、その必要はなかった。

「おれは……」

今なら、空が泣いているように見えるだろうか?
今なら、落ちてきそうな空が見えるだろうか?

佐助は動かない足を引きずり、這ってすすんだ。

ぽと。ぽと。と、佐助の涙が畳にしみを作った。

さあさあと、雨が降る音がする。

障子戸をあけて、その向こう側に。
きっと、幸せだった世界が広がってるんじゃないかという錯覚。

『いいんだ。佐助が喜んでくれたら俺はうれしい』
『ほれ、やっぱりだ。思った通り』
『嬉しそうな顔をしているではないか』

幸せだったときがあった。穏やかに笑いあっていたときがあった。俺はそれを忘れていた。

(ごめん……旦那ごめん……)

自分が壊してしまったもの。それがなんであったのか、あらためておもいしらされた。

幸せだったときがあった。穏やかに笑いあっていたときがあった。俺はそれを思い出してしまった。

(俺の、俺のせいで……)

無くしてから何が大切なのか気付くというのに、俺は無くしても何が大切かなんて気付けなかった。
幸村が自分に暴力を振るい暗い執着をする現状に、喜んでいる自分がいた。
それでは駄目だというのに。

自分が幸村に与えたのは屈辱と恐怖と悲しみ。そして奪ったものは彼の幸せな思い出。

思い上がりかもしれないが、幸村はおそらく、自分といて幸せだったときがあったはずだ。自分はそれを、悪夢に塗り替えた。

奪ったものはあまりにも大きい。自分ですらこうなのだ。
自分に裏切られた幸村はきっと……

怒りよりも憎しみよりも。それ以上に絶望に身を支配されて、暗い闇の中をさまよっているに違いない。

佐助は、戸を開けた。
自分のしたことから逃げてしまいたかった。
初めて、自分のしたことから目をそらした。

空を見たい。
雨を見たい。
降り注ぐ雨。
空の涙。
落ちてきそうな空。

そして、かつての幸せを。

それをみることが許されぬ罪人だとしても。

ただ、この一瞬だけは。

幸せという名の幻を見せて。

やっと障子戸の前に辿りつき、佐助は戸を開けた。

「あ……ぅあっ……」

空は、泣いていた。
佐助にも、空が泣いているように見えた。
悲しいしずくをこぼして。
泣いていた。
黒い空は落ちてきそうだった。絶望して、嘆いて、死を望むかのように。落ちてきてしまいそうだった。

「……っさい。ごめっ」

佐助は謝った。何度も何度も謝った。

紫陽花が、庭に咲いていた。

思い出されるのは、幸村の笑顔。

「ごめんっごめん!!」

紫陽花に、触れたかった。
虫のいい願いだとわかっていても、自分の奪ってしまった笑顔に触れたかった。

与えてくれた花に触れ、あの暖かさと喜びを再び抱いたような錯覚を……

「ふえっ……ひっ……!」

歩けなくなったところで、別にいいと思っていた。だが、なんの力の入らない足が疎ましかった。にくかった。
歩きたかった。
立ち上がって、今すぐに紫陽花に触れたかった。
紫陽花に触れれば、かつての幸せにふれることができるような気がしたのだ……

『さすけ!』

太陽のような笑顔が、そこにある気がした。

佐助は腕に力をこめ、役にたたない足を引きずった。
縁側の、雨に濡れた冷たい木の床に触れて、屋根では遮断しきれぬ雨が、佐助の体をぬらした。
水分を含んだ髪が頬にまとわりつく。
汚れるのも構わず、石段に手をつき佐助は庭に出ようとした。

――その時。

「何をしている?」

ぞくりと肌が粟立つ低い声が、落ちてきた。

「旦那……」

廊下の先に、体を雨によりしっとりとぬらした幸村の姿があった。
冷ややかな視線。
見るものが凍りつくような微笑。

「そのような足になっても、誰かに会いにいくのか?そんなにそやつが愛しいか?」

佐助に、誰か思うものがあるということを、信じて疑わぬ目。

「ちがう……」

佐助は弱く首を振った。

「違う……っ」

佐助は涙を浮かべた目で訴える。

「紫陽花に……」

かつてのしあわせな思い出に……

「触れたかったんだ……」

幸村はそれに、一瞬だけ飢えた獣のような狂気を浮かべた。収まることのない憎悪の炎。消すことのできない憤怒の炎。その炎は視線で射抜く佐助ごと燃やしてしまいそうだった。

幸村は無言で庭に下りた。弱い雨足が幸村をたたく。

「旦那……?」

疑問の声が、戸惑いになり、そして、悲哀に染まった。

「やめて……!」

幸村は、庭に咲く紫陽花の花を散らした。

「お願いだからやめてくれ……!」

この屋敷で飼われるようになって、佐助は初めて声を荒げた。
淡い色調の花びらが、手によって乱暴にちぎられ、根が、足で踏み潰される。
雨のなかで儚く無情にも舞い散る花びらが、雨の中におぼろげな幻を見せては消えていった。
幸村の幼い笑顔が、はつらつとした声が、いびつに歪んではとけて、胸に宿した暖かな思いも、痛みと摩り替わり、過去の自分が悲しげに見つめていた。

『失いたくなかった』

「いやだっ俺はなにされてもいいから!」

幸村は紫陽花を跡形も残すつもりは無いのか、佐助の声を無視し、この雨の中小さな火までおこし、紫陽花を消す。

「うあっいやっだめだっ!……あ、ああ!!」

泣き声というよりも、最後の声は悲鳴だった。
淀んだ黒い泥のような瞳が、消しくずになった紫陽花を最後まで見つめていた。
傍らにとんできた紫陽花の花びら。佐助はそれをぎゅうと握りしめる。
声を上げて泣き喚いた。

「なんで!なんでなんだよ!」

幸村はうるさいとも黙れともいわず、責める佐助を静かな瞳で見つめた。憎しみも怒りも失った目。残ったものは、あるいは戸惑いだったのかもしれない。
しかし、佐助はそれに気付かなかった。

失ってしまった紫陽花に絶望し、幸村をなじり、涙を流す。
横隔膜が震えた。

しゃくりあげ、何故、と繰り返す。涙に声をかすれさせる佐助に、ようやく佐助に自分が味わった絶望を味あわせることができたのだという満足が、無かった。
からっぽの、なにも詰まっていない空しさが胸をしめた。

佐助が傷つけば、嘆けば絶望すれば、苦しみから逃れられると、ずっと思っていた。
憎む苦しさ。怒り続ける苦しさ。裏切られた痛み。幸せを奪われた絶望。

今まで、佐助はずっと耐えていた。何をされても、あきらめたように。泣き叫ばず、ただ目の前の嵐がすぎさるのを待つように、ひたすらに耐えていた。

だから、自分は救われないのだと思った。何もかも腹の中で淀み、苦しみと痛みと絶望に耐えなければならないのだと思った。

けれどそうではなかった。

ならば、どうすればこの渦巻く暗い感情から己は解放されるというのだろう。

分からなかった。分からないことに理不尽だと怒りを感じた。その怒りを、佐助にぶつけた。

「ひっ……えっくっ……」

幸村は、泣きじゃくる佐助を室内に運び、布団の上に濡れた体で組み敷いた。

佐助は抵抗しなかった。ただ、何故、を繰り返す。

慣らしもせずに貫くのはいつものこと。しかし、佐助の痛みに迸る悲鳴は初めて聞いた。

声が裏返るほどの悲鳴。

体に穿たれる楔。
揺さぶられるからだ。
裂ける中。
それでも佐助は気絶しそうな意識で、

「なんで……ああっ……! ひっく……なんでなんだよ……」

うわごとのように繰り返すのだ。

幸村の中にも同じ言葉が占めた。

(何故、何故こんなにもいたいのだ)

痛かった。
痛かった。
今まで、感じたことのない痛みだった。

なんなのだこの男は。何処まで自分を惑わし傷つければ気がすむのだ。
際限ない苦しみを与えれば気がすむのだ!

「うあっあっああああ……!」

佐助の悲鳴のような泣き声とともに獣が吠えるような泣く声が混じった。

二匹の獣の交わりは続いた。
自分の抱える嘆きや苦しみをぶつけあい。
そして救われぬまま、果てる。
白く汚れたからだ。
据えた生臭いにおい。
時は流れて。
意識があるのは幸村のみ。
そして幸村も、いつ意識を手放すかわからぬような無表情でうつろな瞳をしていた。
佐助の体をつながったまま抱きしめる。
ずっと、握っていた佐助の掌から、一枚の花びらがこぼれていた。
なにかを守るようにぎゅうと握り締めていた花びらは佐助の体温や握力のせいで原型を留めていなかった。
汚い色。醜い形。
おおよそ、守る価値も叫ぶような価値もないたったひとひらの。
紫陽花の花びら。

それを見て、幸村の目からまた涙が流れた。



涙の意味を知ってしまうのが怖かった。

けれど、その意味を知らなければならない気がした。